【必見】現代能楽集『鵺/NUE』
現代能楽集『鵺/NUE』(作・演出:宮沢章夫)@シアタートラム/3日-19日
関連特集:①『鵺/NUE』ブログ ②『ユリイカ―総特集 宮沢章夫―』(11月臨時増刊号)
〈アングラ〉は二度死ぬ――宮沢章夫作・演出『鵺/NUE』――
〈アングラ〉という亡霊が舞台を徘徊している、引き伸ばされた死を渇望して。宮沢章夫作・演出、現代能楽集Ⅲ『鵺/NUE』(シアタートラム/11月3日‐19日)の上演を通じてそう喚起させられたのは、清水邦夫の戯曲を劇中劇として挿入し〈アングラ〉を現代に召喚するという形式を取っていたことに加え、そこに能『鵺』の語りが物語の参照項として極めて巧に領有されていたからである。
舞台はヨーロッパの某国における某空港のトランジットルーム。そこに海外上演を成功させ帰国の途につこうとしている一行――有名演出家(上杉祥三)、かつては女優であった桐山雅子(中山安奈)、そして彼/女らとは世代的に隔たった俳優たち(下総源太郎、半田健人、田中夢)、マネージャー(鈴木将一郎)、映像作家気取りの男( 上村
そこに一行に背を向け煙草を吹かしながら一人黙坐している黒ずくめの男(若松武史)がいる。「記憶」を吸っているのだとポエティックに語るその男は、「かつての」、つまりは〈アングラ〉の怪優であり、上杉演じる有名演出家と過去に演劇をやっていたことが徐々に判明していく。
黒ずくめの男は、いまや「昔話」=神話化した〈アングラ〉演劇の「熱」(「かつての言葉には熱があった」)やそれと共振していたかつての新宿文化の「熱」とその消滅を語る一方で、現在的に活躍している有名演出家は、彼と同じ時代を生きたにも拘らず、そうした過去を自ら封殺しようとするかのように「あのころの言葉はない」と語る。黒ずくめの男は彼の態度を「裏切りだ」と告発し、消滅させられつつある過去に自分の姿を重ね合わせていく。そうするうちに、彼の回想とも幻想とも現実ともつかない場の中で清水邦夫の演劇が上演されていくのである。
聖と濁が入り混じる修辞的に凝った独白/長広舌には、確かに「熱」があり、それは現在拡大している「ネオリベ化する公共圏」への抵抗としても有効性を持つように思えるため、〈アングラ〉神話を現代に再生産しているような印象を与えかねないが、しかし宮沢の眼差しはもっと深いところを射ている。劇中劇で清水の芝居を演じた後、若い俳優が「独白とはなんのことです?これは誰に向かって語られているんです?一人で長々としゃべってはいるが、いったい誰に?だってそんな人間がいたらおかしいじゃないですか」と観客に直接語りかけることが示すように、宮沢は演劇という虚構を神話化するために必要な装置を異化し、それらを検証の場へと連れ出そうとしているのだ。
この眼差しは、宮沢が『トーキョーボディ』以降こだわりを示してきた身体にも向けられる。やはり清水の芝居を演じた俳優が〈アングラ〉演劇を「思い込みたっぷりの芝居。気取った仕草。ありえない不自然なふるまい」と語るとき、それは舞台で美学的に構築された身体が自然とされることの不自然さを露呈させることになる。映像作家にカメラを向けられた途端、田中演じる女優が急に凛として「私はかもめ・・・」とチェーホフの台詞を語った後、不意に反省して「くだらねえこと言っちまった」と述べ、美学的に構築された身ぶりの不自然さを強調するのも同様の理由からだろう。
一方で若い俳優たちの身ぶり全てが肯定されるわけではもちろんなく、彼らの「賢さ」も演出家によって「気持ち悪い」と否認され、若者の「賢さ」(人を殺してはいけない理由などを喚起させる)も同時に問われるようになっている。
こうした対照を裏打ちするのは身ぶりの差異だ。かつて天上桟敷にいた若松と夢の遊眠社にいた上杉の強烈な身ぶりと下総、田中、鈴木ら、いわゆる「小劇場世代」以降の演劇世代の身ぶり、そしてテレビ(『仮面ライダー555』が記憶に新しい)を中心に活躍する半田の身ぶりといった実に多様な身ぶりのカタログとでも呼ぶべきものをありありと呈示することで、宮沢が「内閉する連帯」と名付けたような小さな物語/個々ばらばらの演劇の林立しか成立し得ない世界を繋ぐ/貫く試みともなっていたのではなかっただろうか。それによって初めて過去の演劇言語と現在のそれとの対照も可能となる。
こうして「虚構だと知っているがそれには目を閉ざしあえて信じる」シニシズムを絶ちつつ(「独白とは何のことです?」)、虚構である/しかない演劇をどのように構築するか/しないか、演劇言語の可能性を巡る、いわば否定弁証法的な思考へと我々を誘うかのようである。
また〈アングラ〉神話の追認をしているわけではないとすでに指摘したが、その証拠に宮沢は〈アングラ〉を牽引した実践家の現代に於ける責任を含めた〈アングラ〉を巡る諸問題を剔出しようとしているようにみえる。例えば、終幕近くで『真情あふるる軽薄さ』(初演の演出は蜷川幸雄)のなかの有名な「行列」の場面が上演されるだが、ここで機動隊に連行されるのは列を乱した劇中劇人物ではなく、この劇を演出した演出家自身である。禁煙室で喫煙したためだ。弱々しい抵抗の身ぶりを示した後、力なく連行される彼の姿は、もはや往時の「熱」がすでに殺がれたことを暗示しているかもしれない。また俳優を罵倒する演出家に向かって黒ずくめの男が「やつが悪いわけじゃなく、それがいまのお前だ。おまえこそわかっていないんだ。つまり、変ってしまった。すべてがな。変らないのはそうやって罵る演出家の態度だけだ……そこにあるのはおまえなんだよ。いまのおまえなんだ。おまえがみているのは、おまえ自身だ」と語りかけるとき、それは〈アングラ〉の実践者自身がすでに〈アングラ〉を忘却しまっている、そしてかつては権威や演劇という制度への抵抗としての罵倒であったものがいまや弱いものへの単なる罵倒でしかないという事実も指し示しているのかもしれない。〈アングラ〉神話と〈アングラ〉を体験した実践家の現在の姿との乖離が浮上させられている。
それにしても、なぜそもそも過去の人である黒ずくめの男=〈アングラ〉がいま舞台に召喚されるのかということが問われなければならないだろう。しかも『鵺』の姿を借りて。『鵺』は源頼政に討伐され空舟に閉じ込められ淀川に流された怪物「鵺」の亡霊が旅の僧に弔いを請うために現れ、弔いが済むとそれに感謝しいずこかに消えていくという語りだ。「鵺」は討伐された後も死に切れず、魂の安寧を求めて二度目の死を請うのである。これは、ジジェクが解釈を加えたフロイトの死の欲動――死を迎えられないまま続く永遠の生そのものの状態につけられた名前、罪と苦痛にさいなまれながら、いつまでもひたすら彷徨を続けざるをえないという恐るべき運命につけられた名前――を思い起こさせるかもしれない。二度目の死こそが死の欲動から解放される瞬間となるだ。
この死の欲動を鵺=黒ずくめの男=〈アングラ〉が終幕で語る「俺には義務がある。死んでしまった言葉に命を吹きかけること……」という言葉にかぶせて思考してみるとき、彼が死の欲動に苛まれていることがより明白となるだろう。つまり黒ずくめの男=〈アングラ〉は世代的にはすでに終焉=死を迎えている(実際黒ずくめの男はすでに死んでいたことが終幕報告される)のだが、彼は過剰なまでに満たされた生を享受するために、つまり〈アングラ〉の、現在上演はおろか参照すら困難である、宮沢の言葉を借りれば「ひどくもろい」演劇言語の声を、〈アングラ〉とはまるで無縁であるかのように、あるいは忘却の彼方に追いやったまま日々上演される現在の演劇に届けなければならないという〈アングラ〉に関わったものの「義務」を履行しようと奮闘している、そのような清算されぬ負債が黒ずくめの男=〈アングラ〉の死を妨げていると考えることも出来るのではないか。そうであれば『鵺/NUE』はその負債を清算させるための、つまりは〈アングラ〉に二度目の死を与えるための宮沢なりの儀式としての上演であったとも理解することが可能なのではないだろうか。
事実、終幕近くに雅子が黒ずくめの男に向かって、旅の僧が鵺に対するように、「あら不思議の者なるやな。不思議の者と承る、そなたはいかなる人ならん」と語りかけ、最後に彼を主人公に据え〈アングラ〉芝居を演じさせ、過剰なる生を体験させることで、弔いへの前奏曲とする場面がある。
最後の過剰なる生の閃光を放った後、黒ずくめの男は力尽きたかのようにその場にうずくまるが、尚死んでしまった言葉に命を与える「義務」を果たそうと苦悶する。そこに演出家が歩み寄り彼の肩を抱きかかえ、弔いの舟としての真っ黒なジャンボジェットへと彼を送り届けようとする。演出家はそれまで過去の言葉を捨てていたが、黒ずくめの男を弔うなかで「きっとくさった動物の死骸が流れているんだ、猫やら豚やら人間やら……ああ、なんて汚辱に充ちて、華やかなんだ」と語り、〈アングラ〉の言葉を恢復させていく。そのとき初めて黒ずくめの男は死の欲動から解放され、二度目の死という名の安寧を与えられることになる。それは宮沢の言葉を借りるならば「言葉を埋もれてしまった過去の時間のなかから救い出す」という負債を清算したことを意味するだろう。
このように救い出された言葉はひとまず我々の記憶にも堆積していく。そしてその言葉の記憶の継承と否定といった運動を反復しながら演劇はなされなければならない、(それが難しい状況であることを前提としながら)これからの演劇言語の可能性を模索するにあたり、さしあたり出来ることはそのようなことだという宮沢のメッセージが聞こえてくるようであった。そのためにこそ彼は〈アングラ〉に二度目の死を与える儀式をおこなったのだ。
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