【更新】黒沢美香 『薔薇の人 ―登校―』
黒沢美香 『薔薇の人 ―登校―』(構成・振付・演出:黒沢美香)9日‐12日@中野テルプシコール/11日観劇
コンテンポラリー・ダンス業界は今や百花繚乱の相を呈していると言えよう。「グルーヴ」の大号令のもと、脱美学化された身体たちが、あらゆる制度や慣習から自由であろうとして幼児退行的とも称される新しいダンスを創出し続けている。彼/女らのダンスは(既成のジャンル表現を用いれば)演劇にも貫入しており、その結果、例えば遊園地再生事業団の宮沢章夫とニブロールの矢内原美邦とのコラボーレーションに象徴されるように、演劇に於ける身体の再考を促し、豊穣な演劇実践を生み出していることは言うまでもない。
ただし、実に多くの身体的所作が「コンテンポラリー・ダンス」という名の下に一括りにされ、ネオリベラリズム的統治を目指す構造改革によってもたらされた景気の一時的上昇に呼応するかのように、ダンス市場へと景気良く流入している現在的状況を見るにつけ、やはり多くの作家・役者が演劇市場へと流入したと語られる80年代演劇を喚起してしまうのも的外れではないだろう。80年代演劇がその後、批判的に検証されたように、ダンスも検証の視線にさらされる必要があるのではないか。そうした思考を招来させてくれた上演は、黒沢美香のソロダンス『薔薇の人―登校―』(構成・演出・振付:黒沢美香)である。
『薔薇の人』は、黒沢がソロダンスを呈示する場として1999年から毎年一度行われているものだ。毎回ダンスを括るイマージュ的なものがサブタイトルとして掲げられるが、今年のそれは「登校」であり、「登校」の場面がダンスの素材となっている。黒沢の言葉を借りれば「朝、素晴らしき朝に学校に行く途中の出来事です。道に毛虫がいるとそれに夢中になって寄り道、次にはカマキリがかまえていると怖くて進めない。目的地に向かいたいのに延々と蛇行してしまう道中の話」だ。
実際、登場した黒沢は、いつものように白粉を塗りたくり、分厚い睫を付けることに加え、こんもりとした赤毛かかった鬘を装着し、白いブラウスを纏い、白いショルダーバッグを肩に掛けることで、過剰なる「少女性」を身に帯びている。左手は腰の辺りに置き、右手の手のひらは反しながら、左右交互に脚を上げるという動作を反復しながら、数センチ単位で進んでいく。全身で表現される前進しようとする自然な欲望を抑える強い意志の表出としてのこの緊張感漲るダンスは、橋掛かりをゆっくりと摺足で進む能の所作を喚起させる。これが突飛な連想などではないことは、黒沢の登場以前に首くくり拷象とかもねぎショットの高見亮子が摺足で登場し、気象師と彼女らがワキの座する位置に鎮座する場面から始まったことからも理解されるだろう。振付の素材として能的な所作が領有され、それが登校という動作に置換されているのだ。能の型は他者を憑依させるために、人間を「もの」化させる、あるいは器にするためのものだ、ということはしばしば指摘されるところだが、そうした型を通じて西洋近代の二元論的世界観を内破しようと試みた舞踏の方法論を黒沢はありありと可視化させていた。
『薔薇の人』シリーズでは必ず「もの」が登場することも忘れてはいけない。過去にもラケットを手にしてスウィングしたり、のこぎりを手にして木材を切ったり、黒沢と「もの」とが関係する場面が見られたように、今回の上演でも多くの「もの」が現れる。バッグから取り出される煎餅をバリバリ音をたてて齧り、その滓を地面に散乱させたり、しゃもじを二つ取り出して両手に持ち、両腕を持ち上げて、見得を切るような型をとったりする。さらに、ワキの位置に座している首くくり拷象や高見らによって準備される(人形の)蛇に直面した黒沢は、ショルダーバッグから笛を取り出し、我々が低学年時代に教えられたはずの懐かしい曲(例えば『モルダウ』)をあたかも蛇使いさながらに演奏する。
これらの所作は小さな子供が煎餅やしゃもじを手にしたときに行うであろうもの、蛇と笛という物的条件が揃ったら行動に移すであろうことを模倣したものと単純に考えることも出来るが、それが「もの」が喚起した行動であることを考えるならば、「もの」がダンサーに憑依したものだと考えられる。他なるものの憑依という思考は舞踏に由来するのは言うまでもない。
美術評論家の椹木野衣はかつて、60‐70年代のアートシーンを眺望し、その「『もの派』は、素材は意識の志向性との交渉によってのみ作品として存立可能となると考え、むきだしの素材が、それを見る者の視線によって『作品』へと昇華する契機に一抹の期待をかける。彼は世界の『底』が露出する瞬間をひたすら待つ……舞踏者は衣服というイマージュを脱ぎ捨て、全裸に白粉を塗りたくることによってみずからの素性を抹殺し、身体を記憶に委ねることによって、あの『底』が召喚されるのをひたすら『待って』いるのだ」(『増補シミュレーショニズム』)と述べたように、「もの」や身体の奥底に眠っている記憶と共振する作業の結果として出来するものが『作品』、つまり舞踏である。それは主体と他なるものとを隔てるものが消失していく歓喜と愉悦の瞬間でもある。
このように「登校」では、これまで見られなかったほどに舞踏のボキャブラリーが明示されることによって、舞踏が再確認されているといえるのではないだろうか。
さらに、舞踏が少女という「コドモ」に扮した黒沢によってなされていることは見逃してはいけないだろう。現行のダンスは所作の「幼児性」を日本人の現在的身体のあらわれとして肯定することによって、その絶対的根拠を獲得しており、多くのダンサーたちも「コドモ」的身体を現在的身体として積極的かつ肯定的に読み替え呈示しようとしているかのようにも思える。
一方で、黒沢はそのような幼児退行的所作を決して回帰しないノスタルジーとして捉え返そうとしているのではないかと思えた。上述したように、今回の上演ではあからさまに我々視る者のノスタルジーを掻き立てずには置かない構成となってはいるものの、黒沢の装う過剰な少女性と同様に、あまりに過剰なノスタルジーゆえにそれが飽和点に達し、むしろ違和感を催してしまうほどとなる。
これが頂点に達するのがオルガンに向かう場面。今まで同様、子供がオルガンに接した時に振舞うであろう所作を見せるのかと思いきや、鍵盤の上に上半身を伏し、そのまま動かなくなってしまう。
私はここで「幻想はもはやあり得ない。なぜなら実在がもはやあり得ないからだ」というボードリヤールのシミュラークルの理論に思いが至った。「少女性」や「幼児性」という現在的肯定されている所作は、飽くまでも/どこまでも模倣に過ぎず、どこかで表象の美学の臭いがするものだ。そうした所作は、痛みとしてしか主体に戻ってこないものなのではないだろうか。
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