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【更新】黒色綺譚カナリア派『繭文~放蕩ノ吊ラレ作家』

Mayubumi1 黒色綺譚カナリア派『繭文~放蕩ノ吊ラレ作家』(作・演出:赤澤ムック)@ザムザ阿佐谷 /12日(月)観劇

ジャーナリズム的露出度が必ずしも高くないという意味で、これから期待する若手の演劇実践家たちの中で、私がこっそり応援させて頂いている集団が二つある。一つは、「小指値」で、もう一つは「黒色綺譚カナリア派」だ。系統が異なる二つの演劇だが、それぞれセンス煌くところがあるので期待している。今回は後者の演劇を観に行った。

詳細は後日書くとして(Fringe主宰の荻野達也さんのブログをどうぞ)、一つだけ。役者への演出について。上手い下手という単純な問題ではなく、そしてそこに作品の出来を結びつけて還元的に考えるのでもなく、役者の身体に意識の行き届いた演出を今後期待したい。赤澤さんは唐組出身なのだから、できるはずなのだ。フィクショナルに加工された(その結果下手さが目立った)役者たちのなかで、異彩を放っていたのは野鳩の佐々木幸子であった。彼女の「下手ウマな」動きは非常に良かったと思う。

[感想]

黒色綺譚カナリア派(以下、黒色)の芝居を観るといつも、「奇想」という言葉が思い浮かぶ。ここで言う「奇想」とは、美術学者の辻惟雄が『奇想の系譜』で述べたような意味での「奇想」である。辻は、伊藤若冲や曾我蕭白など、彼が問題にするまであまり真面目に取り上げられてこなかった江戸の絵画を取り上げた。若冲の極彩色の、我々をあっと驚かせる趣向、蕭白のユーモアとグロテスクが混交した作品、など「奇想」を用いた作品は実は、辻の紹介の甲斐もあり、70年代に広く読まれ、例えば最近出た平岡正明の『アングラ機関説』のなかでも取り上げられている澁澤龍彦にも愛されていたのだ(若冲の作品を見に京都の某寺まで行ったらしい)。辻の「奇想」の思考は、廣末保の『悪場所の思想』に影響を受けたもののようであるが、この本は唐十郎に影響を及ぼしたことでも知られる本である。そうであれば、「奇想」というキーワードは、アングラを括るキーワードでもあるだろう。

グロテスクな要素のある物語を、小劇場界ではほとんど見られない美的感覚を持って視覚的に艶やかに演出することで、「アングラ系」とレッテルを貼られてきた黒色綺譚の舞台に「奇想」を見てもおかしくはないかもしれない。紀里谷和明が宇多田ヒカルのPVの中で若冲の絵を用い、村上隆がスーパーフラットの具体例として若冲などの江戸絵画を持ち出しているように、江戸の「奇想」は今、アートシーンに影響力を持っている。この文脈の中に、黒色を主宰する赤澤ムックも位置付けることが可能かもしれない。

これまで舞台を「絵」として見せることに腐心しており、結果的に散漫で冗長な印象を内容となっていたが、与えるいるようにみえたが、今回の舞台では、特異の妖艶な日本風世界をかもし出しつつ、「物語」を伝えることに力を入れていたようだ。

7人兄弟姉妹をめぐる物語。家族の中でなぜか次男だけ引きこもり、他の兄弟姉妹の生活を観察し、それを記録に取っている。彼の「視線」を意識した緊張した生活を強いられているのだが、その一方で、次男が書いた日記を他の兄弟が秘密裏に出版して、それでお金を儲けているという裏事情が明らかになっていく。

 次男が奇妙な観察生活を始めた経緯はこうだ。かつて彼/女らの両親が殺し合い、互いに命を落としたとき(この辺りもう少し丁寧に考えて欲しいと思ったりするのだが)、兄弟姉妹は、周囲からの心無い言葉によって、皆絶望のふちに立たされていた。その時、精神的に倒壊していた家族を立ち直らせようと、次女が思いついたことらしいのだ。観察者の「視線」を意識して、「普通の家族」という「物語」を構築すること、家族というゲームを演じること、そうすることによって家族を無理矢理にでも立たせようとしたのである。

 だが、次男の結婚をはじめとして、他の兄弟姉妹が自立し始めると、次女が構築してきた物語が狂い始める。彼女は、必至に自分の物語の中にみんなを戻すとするがもはやそれがかなわなくなってくる。

 女の子として育ててきた末の子が実は男であることまでも明らかになり、ますます彼女の物語は狂い始めていくのだが、末の子は自分が男であることを認めない。彼/女だけが、次女の物語を信じている/ふりをしていくのである。

 その時、舞台後方から大きな紅の敷物が敷かれ、そこに兄弟姉妹や彼/女らを取り巻く人々が鎮座する。そして、それは次男とその結婚相手をお内裏様とお雛様とした、ひな壇となる。そこには次女の居場所はない。そして終幕、物語を牽引する役を引き受けるのが末の子となることが暗示され、暗転。

 設定は別として、話は分かりやすくまとまっていたように思う。だが、「普通の演劇」の域を超えていないのも事実かもしれない。最近ダンスをよく観るので、普通の物語演劇に少々耐え切れなくなった私にはややつらい。

だが、繰り返すが、美術やはり見せる。最後のひな壇を予告するかのように、舞台一杯に天上から、ひな祭りのお飾りのようなものが吊るしてあるのだ。物語が進行するにつれ、さらにそのお飾りが天上から落とされるのも綺麗だ。

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